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柳川流と柳川三味線について

 「柳川流」というのは、地歌三味線の最古の流派で、現在は京都でしか伝承されていません。流祖は柳川検校(?~1680)で、三味線そのものを開発して最初の地歌作品となる「三味線組歌(本手)」7曲を作曲したとされている石村検校(?~1624)の弟子とも、孫弟子ともいわれています。そもそも地歌の流派は、職格取得のための必修曲であった「三味線組歌」の伝承系譜によるもので、柳川検校以降は、柳川の孫弟子・野川検校が、大阪を中心に広めた「野川流」しかありません。
 三味線も少しずつは改良されましたが、柳川検校時代のものが主流でした。ただ、大阪では、初代津山検校(?~1836)が先端で薄く大きく拡がった「津山撥」を開発してからは、それに倣った撥が急速に普及し、明治になりますと楽器自体の改良も大阪や九州で行われました。 現在の地歌三味線は、九州の長谷幸輝(1842~1920)の跡を承けた弟子の川瀬里子(1873~1957)が東京で完成したもので、俗に「九州三味線」と呼んでいます。
 今では、この「九州三味線」と「津山撥」が地歌の主流となり、柳川流を伝承する京都でも、表現力に幅のある「九州三味線」を用いるようになりました。
 とはいえ、今、地歌の作品として最も演奏頻度の高い「京風手事物」が作られた時代は、この柳川三味線であったはずです。ここ京都では、流祖以来のこの「柳川三味線」が廃絶しないようにと、京都當道会が中心となってその伝承に力を注いでいます。

「柳川三味線」の主な特徴

現行の地歌三味線に比べますと全体にやや小振りで、棹も細めです。
皮は表裏それぞれ一匹ずつの子猫の皮を張りますので表面には八つの乳跡があります。
写真:上/柳川三味線 下/一般の地歌三味線(九州三味線)
棹は細めで、その付け根は鳩の胸のように、丸みを持っていますので、高いツボでは、棹と糸との間の隙間が広く押さえにくいです。現行の棹はこれを改良して、胴のぎりぎりまで一直線になっています。
胴には胴掛けを掛けず、肘を乗せる所に「手当たり」という金襴の小布を直張りします。根緒には房飾りを付けます。
写真:上/柳川三味線 下/一般の九州三味線
駒は「台広」と呼ばれ、台が広めの鼈甲製ですが、中が刳り抜かれ、底に金属を入れないので軽量です。
写真:上/一般の地歌駒 下/台広駒
撥は「京撥」ともいいます。象牙製で、楽琵琶の撥に近い小振りですが、握りから先端にかけて、かなり薄くなっていて、しなやかです。胴皮に打ち付けずに、ヘラで練り物をこねる様に弾きます。
写真:上/通常の地歌用津山撥 下/京撥
音色は、意外と重厚で、深い味わいがありますが、細かい表現をするには技巧的に難しい点も有り、様々に改良が試みられてきました。
現行の地歌では、九州系生田流の長谷幸輝(1842~1920)と、その弟子・川瀬里子(1873~1957)によって改良された俗に「九州三味線」と呼ばれる三味線に、大阪系生田流の津山検校慶之一(?~1836)が改良した大型の津山撥を使うのが一般的です。

※解説:久保田敏子(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター所長)

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